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解説:河竹登志夫
初代中村吉右衛門(一八八六~一九五四)は明治十九年三月二十四日浅草寺の裏、浅草象潟町に、三代目中村歌六の次男(本名波野辰次郎)として生まれた。 弟は三代目中村時蔵、十七代目中村勘三郎、娘婿は八代目松本幸四郎である。 初舞台は明治三十(一八九七)年。明治末から大正期に、六代目尾上菊五郎とともに「菊吉時代」築き、いわゆる「市村座時代」を招来し、小宮豊隆が『新小説』に「中村吉右衛門論」(現、岩波現代文庫)を発表(明治四十四年)するなど、知識人にも支援者が多かった。以後も、初代吉右衛門は、父歌六譲りの上方風の芸風に、九代目團十郎の近代的な演技を加え、大正から昭和にかけて、歌舞伎という演劇を新鮮によみがえらせ、多くの観客を魅了した。 戦後は歌舞伎界の重鎮として活躍し、とりわけ六代目菊五郎没後は歌舞伎界の頂点に君臨して、文化勲章をはじめとする栄誉に輝いた。 最も得意としたのは時代物を中心とする演目で、いずれの役にも播磨屋独特の名調子をうたわれ、その型や芸が伝えられている。 また、六代目歌右衛門や十七代目勘三郎、八代目幸四郎らを擁した中村吉右衛門劇団は、戦後歌舞伎の分布図を二分する存在となって、現在の歌舞伎界にも大きな影響を与えている。屋号は「播磨屋」、大向こうからの「大播磨!」の掛け声で知られた。 養子にあたる当代中村吉右衛門が、初代の俳名「秀山」に因んだ「秀山祭」をもよおして、その芸の顕彰につとめている。 昭和二十二年日本芸術会員、昭和二十六年文化勲章。昭和二十九(一九五四)年九月五日没。 |